VTVジャパン テレビ会議教科書

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2.3.2 横浜復興記念博覧会に電気試験所のテレビ電話

 日本でも1930年代に逓信省電気試験所で「対話のできるテレビジョンは公衆電気通信を営業する逓信省自体の業務上の重要な将来問題」として曽根有氏により「テレビジョン電話」が研究されました[2-15].テレビジョン電話の試作装置,その構造と使い方を図2-6に示します.

図2-6 復興記念横浜大博覧会(1935年)に展示されたテレビ電話
図2-6 復興記念横浜大博覧会(1935年)に展示されたテレビ電話

逓信省電気試験所で試作された機械走査式のテレビ電話装置です.当時「テレビジョン電話」と呼ばれました.将来の電気通信サービスとなることを期待し,テレビジョン技術の応用が研究開発されました.

 左上は正面から見た試作装置,左下が構造を示しています.撮像,受像ともニプコー円板による機械走査を用いていて,対物レンズの前の通話者像が光電管で映像信号に変換され,相手通話者の映像信号は水銀灯で光に変換の後平面鏡に映し出されます.すなわち,現在の装置で言えば,ディスプレイの直ぐ右にカメラが配置された構造です.図2-6の右側はテレビジョン電話を使っている様子です(筆者注:装置の正面写真ならびに構造図と比較すると,この使い方の写真は左右反転して印刷されたものと推察されます).
 テレビジョン電話の試作機は,1935年3〜5月に横浜で開催された復興記念横浜大博覧会に展示されました.復興というのは関東大震災(1923年9月1日)からの復興です.この試作機はその後日本各地の博覧会,展示会で展示されました.
 図2-6の試作機では通話者間の視線は完全には合いませんが,電気試験所ではその後撮像と受像の視軸を合わせた視線一致形の装置を開発し,1937年に大阪市立電気科学館に設置しました.テレビ電話,テレビ会議の本質的課題である視線合わせ(相手画像を見て話すと相手には正対して見えること)に気付き,それを克服したことに敬服します.
 また,ドイツでは公衆テレビ電話サービスが1936年,ベルリンとライプチッヒ間で開始されました.その模様を図2-7に示します.公衆テレビ電話室間を結んだシステムを構築し,後に他の都市にも拡張されましたが,1940年には軍事上の理由でサービスは中止されました[2-16][2-17].

図2-7 ドイツの公衆テレビ電話(1936年)
図2-7 ドイツの公衆テレビ電話(1936年)

日本では試作・展示の段階だった頃に,ドイツでは公衆テレビ電話室を結んだサービスが提供されていました.最初はベルリンとライプチッヒ間のサービスでしたが,後にハンブルグ,ニュールンベルク,ミュンヘンが加えられました.

 動画を送受信するテレビジョンの研究は,1920年代に始められ,日本では1926年12月25日(大正天皇崩御の日で,昭和が始まった日)高柳健次郎氏により「イ」の字をブラウン管上に表示する実験が行われました[2-10][2-11].当時の撮像デバイスは機械的に回転する穴の開いた円板(ニプコー円板[2-12])で走査を実現しています.米国AT&Tベル電話研究所では1927年4月7日に片方向のテレビジョン実験を,1930年4月9日には電話に付随する双方向のテレビジョン実験を公開しました[2-13][2-14].双方向の映像伝送に加え,電話の部分にはマイクロホンとスピーカを用いています.
 この双方向のテレビジョン実験が現在に続くテレビ電話,テレビ会議の始まりと言えます.AT&Tは電話会社なので当然と言えば当然ですが,テレビジョン技術の応用としてテレビ放送よりテレビ電話を取り上げていることが注目に値します.